▲松林柏円の講談本「今常磐布施譚」の表紙(布施こなさん蔵)
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◆東近江・東近江市◆
徳川幕府から明治新政府へと、時代が大きく動くなか、旧最上藩領上大森村(東近江市上大森町)で、藩の武芸師範が刺殺される事件があった。
犯人が逮捕されたのは事件の一年後、明治五年十一月であった。「急死というが、怪しい」との密告が大津の聴訴課(現在の県警本部)に届いたためである。何よりも世間の人々に衝撃を与えたのは、逮捕された犯人が布施以登(ふせいと)という旧最上藩家臣の妻であったことだ。なぜ、彼女は男を刺したのか。残された資料をもとに、当時、全国ニュースにもなった「布施騒動」の経過を追ってみよう。
■以登の生い立ち
何もなければ、平穏な生涯を送っていたはずの以登の生い立ちから。
以登は文政九年(一八二六)一月三日、水口藩士族の山県家に生まれた。幼いころから厳格な父母の教えのもとに読書・手習いにはげみ、成長するにつれ歌舞・音曲はもとより歌道・漢学の素養を身につけた。容姿が美しく気性のしっかりした評判の女性で、水口藩主に引見されたことも何度かあったという。
弘化二年(一八四五)、二十歳のとき彼女は上大森村に屋敷を構える布施内蔵太友稱(ふせくらたともかな
のもとに嫁いできた。内蔵太は最上藩代官役をつとめていた。
以登は夫・内蔵太に甲斐々々しく使え世間もうらやむ仲睦まじい間柄で、二人は一男四女(二女は早世)をもうけて幸せな家庭を営んでいた。
■夫・内蔵太の割腹
ところが文久二年のある日、夫・内蔵太が割腹自殺した。原因は、最上藩江戸屋敷から大森の本陣に移ってきた宮田忠左衛門(みやたちゅうざえもん)一派との抗争であった。当時、全国各藩は尊皇(そんのう攘夷じょうい)か佐幕(さばく)(徳川幕府維持派)かで大揺れに揺れていた。五千石の小藩・最上藩でも事情は同じである。藩論は二つに分かれ、内蔵太は尊皇を主張し宮田忠左衛門は佐幕をとなえていた。
内蔵太は真っ正直で融通性にとぼしく、いっぽう宮田は弁舌にたけ主君の最上駿河守義連(もがみするがのかみよしつら)の機嫌をとることにも巧であった。宮田は藩の主流を佐幕派でまとめたうえ、内蔵太の仕事ぶりにもさまざまな中傷・攻撃をおこなった。このため、内蔵太は藩主から譴責を受けることがしばしばであったという。
その悔しさを内蔵太はときに妻・以登に漏らすこともあったが、ついに精神的に耐えきれず割腹自殺したのである。内蔵太はこのとき口に書状をくわえていたとの話もある。何かを訴えたかったのであろうが、書状の内容はうやむやのままとなった。
以登の悲嘆はことばに尽くせなかった。菩提寺である養源寺に夫の亡骸を葬り供養をつづけながら、いっぽうでいつかは宮田忠左衛門を夫の敵として討つことを心に誓っていた。
▲講談本の挿し絵(梅堂国政画)
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■武芸師範・丹野の登場
時代は変わり、徳川慶喜が大政を奉還する。一時は佐幕に傾いた最上藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは官軍として戦った。しかし、藩内の佐幕派で、かつ内蔵太を死に至らしめた宮田は、なおも巧に藩主の庇護を受けていた。
布施家では長男・初太郎が家督をつぐとともに、藩に新設された明道館(みょうどうかん)で学術・武芸を学ぶことになった。明道館武芸師範は丹野与惣右衛門(たんのよそえもん)といい、性格は粗暴であるが「腕は確か」と近隣に知れ渡った男である。以登は、その丹野に初太郎の剣術指南のため、出稽古を依頼した。初太郎が立派な剣の使い手となって、藩政の寄生虫であり夫の敵でもある宮田忠左衛門を、見事に討ち果たしてくれることを願っていたのである。
■丹野、宮田を討つ
初太郎の武芸師範として布施家に出入りするようになった丹野与惣右衛門は、あろうことか初太郎の母、以登に横恋慕するようになった。このころ以登は四十歳を過ぎたばかりで、容姿はもちろん武家育ちだけあって立ち居振る舞いも美しい。丹野は何かと以登にまとわりつくが、彼女はこれを柳に風と受け流す。
ところが、ある夜のことである。酒に酔った丹野が以登の寝間に忍び込み、彼女に刃をつきつけて、「意のままにならねば斬り殺す」と関係を迫った。一瞬、茫然となった以登であったが、ここで彼女は一計を案じた。丹野に「夫の敵である宮田忠左衛門を討ってくれたならば」と話を持ち出したのである。まさか、そこまでは丹野も実行すまいと思ったのであろう。しかし、丹野は約束を果たした。
明治元年九月十七日夜、所用先の八日市から帰ってくる宮田忠左衛門を大森地先の墓地付近で待ち伏せ、一刀のもとに切り捨てたのである。
▲獄中での手芸品(布施こなさん蔵)
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■丹野の暴虐と死
その後の丹野は、以登に対し傍若無人に振る舞うようになった。初太郎の剣道指南というのは名目だけで、酒を求め以登に関係を迫る。以登が絶交を言い渡しても、密約を楯にますます乱暴をかさねる。ついには押し込み亭主のように振る舞い、気に入らないと以登を打ち据えるありさま。事情を知らない近隣や噂をきいた親元・親戚から忠告・中傷がつづいた。
初太郎はまだ十二歳である。彼の成長を見届けるまでは、以登は死んでも死にきれない。窮地に追い込まれた以登には、丹野への殺意が芽生えた。とはいえ、武芸師範の丹野に女手で立ち向かえるはずがない。
以登はそのころ、初太郎を親元の水口・山県家に預け、儒者として著名な中村栗園(なかむらりえん)の下で学ばせている。初太郎だけは何とかして丹野から切り離したかったのであろう。
そして、事件の夜がきた。
明治四年十月二十六日夜遅く、知人宅で濁り酒の振る舞いを受けた丹野が、泥酔し以登の家に転がり込んできた。以登は彼を介抱し布団を敷いて寝かせつけた。夜が更ける。丹野のいびきのほかには物音ひとつしない。以登は思いを決し、懐中の短刀を抜いて丹野を刺した。
■以登、逮捕さる
翌朝、彼女は、丹野が急死したと周囲に伝え早々に葬儀を出した。当時は、寺が承知すればすぐに埋葬ができた。
しかし、誰いうとなく「丹野は殺されたらしい」との噂が広まった。そして、事件から一年経った五年十一月、県の探索係が八日市に出張し以登を逮捕した。同時に拷問がはじまった。「女手ひとつで武芸師範の丹野を殺せるわけがない。他に犯人がいるか、あるいは手助けしたものがあるはずだ」というのである。水口にいた初太郎も召喚された。このとき、十五歳。彼の驚きは想像にあまりある。初太郎共犯の疑いは晴れたが、その後、彼は故郷の家に留まり母の無事を神仏に祈りつづけた。
■獄中の以登
逮捕から三年間の未決期間をへて、明治七年一月、以登の身柄は東京上等裁判所に移された。その後も、共犯者などの吟味がつづいた。布施家と姻戚関係にあり旧最上藩家老職の鳥越準左衛門は東京に半年余も拘留され尋問を受けている。
すべての審理が終わり、東京上等裁判所の判決がくだったのは明治八年八月三十日であった。判決文の写しが残っている。事件の経過を述べたあと、最後につぎのように記している。
「丹野与惣右衛門の熟睡を窺い刺殺する科、斬罪に処すべきところ、元来、与惣右衛門の所業、狂暴無頼著明なるを以て、情状を酌量し本罪に二等を減じて懲役三年を申しつける」
▲以登が獄中でつくった和歌(布施こなさん蔵)
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死刑を覚悟していた以登は、この判決を聞いてまさか夢ではないかと疑った。そして、ふたたび初太郎にも会えるのかと嬉し泣きに泣き伏し、裁判官を伏し拝んだという。
獄中での以登は、模範囚と讃えられた。看守を助け、勧善懲悪の講話をしたり手習いや手芸を教えたりしたりして、他の女囚に慕われた。瓦のかけらを硯の代わりに、消し炭を墨の代わりにして和歌をしたためた。こよりをご飯粒で紙に貼り付けた和歌も残っている。
「子を思ふ心のやみにふみ迷ひ道を忘れし身こそ恥ずかし」
「世の中に憂きもつらきもありぬれど我が身にまさる憂きはあらじな」
以登は、生まれつき手先が器用で、獄中で彼女がつくった手芸品は明治十年の内国勧業博覧会に出品され褒状を受けた。以登はまさに、「女子受刑者教育の先駆者」なのであった。
■以登、初太郎のその後
明治十二年八月、以登は満期放免となった。初太郎や水口に住む実兄・山県順をはじめ親戚・縁者が上京し彼女を迎えた。上大森村の自宅に帰ってきた以登は、自身の不都合を詫びひたすら謹慎をつづけた。
間もなくこの実話は東京郵便報知新聞紙上に連載され、明治十三年には人気講談師・松林伯円(しょうりんはくえん)が、「滋賀県美談」『今常磐布施譚(いまときわふせものがたり)』と題して三部作の講談本にまとめた。伯円は、以登を、わが子義経を守るため清盛に身を委ねた常磐(ときわ)に見立てたのである。さらに演劇の題材としても取り上げられ各地で興業が行われた。以登を訪ね、上大森村までやってくる人もあった。しかし、以登はひたすら罪を詫びるばかりで、事件については何も語らなかったという。
以登は請われて明治十四年から高木村・遷喬学校(せんきょうがっこう)の教員として子弟の教育に従事したが、健康を損ない、三年で退職した。その後は自宅で近隣の子女に書道・手芸を教えつつ、もっぱら仏道に帰依し念仏三昧の日々を送った。明治四十年二月三日、八十二歳の天寿をまっとうした。辞世がある。
「前の世のむくひの罪はおもけれど他力の教へ聞くぞ嬉しき」
いっぽう初太郎は師範学校にすすみ、教職の道についた。鳥越家の長女を妻に迎え友政と名前をあらためた。友政は、市原・日野・中野の各小学校で教鞭をとり、明治四十二年十一月に新設なった玉緒小学校の初代校長に就任した。大正七年没、享年六十二歳。
いまでは、以登・初太郎(友政)二人がたどった数奇な運命を記憶する人も少なくなった。母と子は、夫であり父である内蔵太とともに、上大森町の養源寺境内でひっそりと眠っている。
(注)
(1)布施家は、大森城主・布施淡路守の子孫と伝える。平成十七年九月、沢田幸雄さん(東近江市瓜生津町)から、布施家の家系図を伝えておられる布施こなさん(東近江市建部堺町)を紹介して頂き、共に訪問した。そのとき、こなさんから「布施いと子伝記」や彼女の手芸品などを拝見することができた。
(2)同「伝記」は、明治前後の貞女烈婦の事績集が編纂されるに当たり、求めに応じて綴られたもので、明治四十三年ころ地元の人により作成されたと推定される。今回の文章は、主としてこの「布施いと子伝記」にもとづいている。布施こなさんは、「丹野を刺したのは他の人間。以登さんがその罪を被った」と伝え聞いておられる。
(2)以登の名前は、諸本に「伊登」「糸」「糸子」「いと子」などと書かれているが、東京上等裁判所判決書(写)の記載にもとづき、「以登」とした。
(3)布施以登をめぐる事件は、松林伯円の講談本のほか、長谷川伸『日本敵討ち異相』・横瀬夜雨『近世毒婦伝』にも紹介されている。『近世毒婦伝』では、以登は貞女でなく毒婦になっている。上記の二作は脚色が多い。『近江蒲生郡志』第八巻「人物史」、および『大森のむかし』「最上騒動(布施物語)」(梅本茂左衛門さん)でも紹介されている。
(3)上大森町には、布施家の屋敷跡が残っている。また、大森町との境に「布施友政顕彰碑」がある。
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